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赤壁の戦いの真実

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 22:25:05 ID:LLssZ0AR0
有名な赤壁の戦い


実際はどんなものだったんでしょうか?


2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 22:32:10 ID:Ur4UZfrAO
流石にこれは三戦板でやろうよ
スレもうあるんだしさ

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 22:35:31 ID:kZOElXVb0
三戦に武侠スレと水滸伝スレたててこようかな

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 23:25:20 ID:CIdK8T8W0
三戦板に気兼ねする必要はないよ。ここはここでやればいい。

とりあえずWiki

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A3%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 赤壁の戦いは、208年の中国三国時代に魏の曹操の軍(15万)と蜀の劉備・呉の孫権連合軍(推定5・6万)の間で長江の赤
壁(現在の湖北省)で起きた戦い。連合軍側の勝利で終わり、曹操の天下統一の野望は頓挫する。現在赤壁と呼ばれている
場所とは位置が異なるようである。北宋の詩人蘇軾は、この間違った地で「赤壁賦」を作ってしまったらしい。

史実における赤壁
 208年7月、荊州の牧であった劉表を攻める為、曹操は兵を率いて荊州へ南下を始める。八月、劉表が死ぬと策略により劉表
の跡を継いだ次男・劉jは9月に降伏し荊州を曹操に譲り渡してしまう。孤立した劉備は、長江づたいに南下し、長坂で追いつ
かれるが、何とか難を逃れ夏口へ到達する。そこで劉表の長男・劉gと合流し、孫権の命で荊州の動向を探りに来た魯粛と落
ち合う。その兵百万と聞き孫権は驚愕するが、周瑜は、実際には14〜5万しかおらず、軍隊は疲弊しきっているので勝機はこち
らにあると孫権を説得する。
 劉備からは諸葛亮、孫権からは魯粛が使者となり同盟を結び、長江を挟んで対峙する。孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を送
る。12月黄蓋は策を練り、実行される。周瑜は失策失敗を理由に黄蓋を鞭打ちし、恨みを持った事を理由に黄蓋は降伏した。し
かし、これは偽装であり内側より火攻めに成功、多くの軍船が沈んだ。苦肉の策という故事成語はこの時より生まれた。
 曹操軍は慣れない江南の地で疫病や兵糧不足に悩まされたこともあり、荊州の大半を放棄し、樊城の守りを曹仁に託し許都
に引き返してしまう。
 孫権・劉備側の完全勝利ということもあり、あたかも曹操が致命的な痛手を負ったかのように評される事もある。しかし実際に
名前の知られた曹操配下の武将の戦死・戦傷の例が皆無であり、またその後の曹操が莫大な費用のかかる銅雀台の建設を
進めていることからして、少なくとも致命的な被害とは言えないと考えられる。実際にどの程度の被害であったかは史書にはっ
きりとは記載されておらず、推測するほかは無いが、この戦いの結果により曹操の南下政策が頓挫したのは事実である。


5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 23:25:51 ID:CIdK8T8W0
演義における赤壁
 『三国志演義』における赤壁の戦いは以下の通りである。
 『三国志演義』では、朱元璋が陳友諒の水軍を火計で打ち破った鄱陽湖の戦いをベースにしている部分があるので注意が必
要である。
 208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと7月に50万の兵を率いて南下を開始した。ちょうどそのころ劉表が亡くなり、劉
jと後見人に付いた蔡瑁は、曹操に降伏してしまう。曹操は荊州の兵を会わせ「百万」と号した。諸葛亮の意見を取り入れず荊
州を奪う事を諦めた劉備は曹操軍に追われ、ひたすら南に逃げるが大量の領民を引き連れたために進軍速度が上がらず長坂
坡で追いつかれてしまう。この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れると、夏口の劉gの下へ落ち延びる。一方、江東に勢力を伸ば
していた孫権は、この報に驚き、文官武官を集めて、降伏するか戦うかの会議を始めた。文官のほとんどは降伏を主張していた
が、そのころ劉備の軍師だった諸葛亮が訪問し、魯粛も主戦論に偏っていたためにこれを利用し、孫権の説得を始める。兄孫策
の義兄弟でもある周瑜も後からやってきて主戦論を主張したために孫権は降伏派を一蹴し戦うことを決める。当初、周瑜は魏に
降伏する考えであったが、諸葛亮から曹操が作った詩で「二喬」(自分と義兄弟の孫策の妻)を欲しがっていると聞かされ、怒っ
て孫権に対して戦うようにと主戦論を主張した。
 両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、周瑜は計略を使い、
荊州水軍の要である蔡瑁を謀殺する。蔡瑁謀殺後に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和に対して偽
情報を曹操軍に流させるなど大いに利用した。そして、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。
また、火計を効果的にするために、当時在野にいた龐統を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のためにと船同
士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。問題は、当時の季節-10月には東南の風が吹かないと言う事だった。この方
向に風が吹かないと、火計を用いた場合自分達の水軍にも被害が下る恐れがあったのである。諸葛亮は東南の風を吹かせると
言い、祭壇を作り祈祷すると、どこからか東南の風が吹く(民間伝承には、諸葛亮はこの時期に東南の風が吹く日があるのを初
めから知っていたと言う話やドジョウを使って東南の風を吹く日を知ったなどの話がある)。機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積ん
だ船に火をつけさせ火計を実行、「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。更に東南の風で
地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られた。なお周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛
亮は、東南の風が吹いた直後にその風を利用して劉備の下へ逃げ去った。
 一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかけた。しかし
諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能であろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて
関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認した。
 こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後劉備と孫権の係争地となる。

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 08:22:53 ID:El+Z0CMvO
こうめいが風を起こしたから勝ったんだよ

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 09:04:20 ID:VNtD4jwa0
演義の方は、基本的に鄱陽湖の戦いのパクリのようだけど、
よくあれだけ盛り上がる話に仕立てたなと、作者の創作力に感心するよ。

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 09:50:59 ID:LEAdpTVr0
赤壁の戦い
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1161249798/

こっで語ろうよ

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 21:01:48 ID:6MYU1CBK0
三戦では語ろうにも語れない

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 23:51:17 ID:BeJpTZIs0
魏、蜀、呉のそれぞれで見方が違うからな。
あんまりよく分からん戦い。

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 09:13:27 ID:vmGpwu3U0
結局のところ、歴史上特筆するべき重要な戦いだったと言えるのかな?
三国時代の数ある戦いのうち、わりと大きな戦いの1つ、といったところ?


12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 23:01:31 ID:KEDMqu3x0
でも曹操の南下は頓挫したんでしょ

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 16:03:46 ID:tW/rumWw0
劉備ってさ、この戦いの前後、上手いこと立ち回っているね。


14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 23:52:16 ID:+4RDTDB80
なんだかんだで狡猾な男だからね。
まだ、曹操の方が大物感があっていいよ。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/14(木) 15:34:07 ID:l0aaeB/B0
曹操の軍勢で疫病が流行ったのは事実。

それが撤退の最大の理由だろう。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/14(木) 23:56:58 ID:OHcqkn460
>>14
荊州で撤退する時なんか、まんまと民衆を盾に使ったしね。
あの男の才能は、逃げる時に最大限に発揮される。


17 :「正史」からの引用:2006/12/15(金) 19:58:45 ID:Vd8GYiEq0
「北岸はおびただしい数の焼死者、溺死者により埋め尽くされた・・・」
とのこと。すさまじいね。
ところで三国時代は人口激減期で「演義」の兵力数は歴史と異なる。
赤壁での兵力は曹操軍が22、3万といったところなのに80万と誇張
されている。
小説だから数字は歴史と同じである必要は無いが無理が多い。
例えば弱小国の蜀が背後に魏という大敵を抱えながら呉に75万の兵力
で侵攻したり、南方に50万の兵力を出したり。それでいて主敵の魏に
は最大で30万程度しか出していない。これって矛盾だよね。
正史によると263年の滅亡時に蜀は人口94万、兵力10.4万。
呉は280年の滅亡時に人口230万、兵力23万。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 22:19:07 ID:JEeyU0e40
正史の人口記録だと、後漢最盛期に比べて三国時代はほぼ10分の1に減っているけど、
実際は王朝の人口把握能力の低下によるところが大きく、そこまで極端な減り方はしていないと思う。
大きく人口が減少したことは事実にしても。

兵力の誇張は、古今東西どこでも同じだね。
三国時代は、実際のところ、最大でどれぐらいの兵力を動員できたんだろう?

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 03:36:02 ID:+xrZH3t7O
信憑性があるかは分からないサイトか何かで当時の資料やらから夷稜の戦いで劉備が動員した総数はおおよそ13〜15万ではないかと検証してたな。
捕虜逃走を含め帰国出来たのは半数程で、これが滅亡の遠因になる程の戦力低下に繋がっているとすら書かれてたな。


20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 16:56:34 ID:OXdeiF4b0
ずっと後の時代の、サルフの戦いでの、
明軍も47万と号して、実数は10万ぐらいだったらしいからね。

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 22:39:35 ID:1crxYZKJ0
桶狭間の戦いの時の、今川義元の軍勢の兵数は、
実数二万五千、号して四万、だったとか。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/16(土) 23:57:09 ID:+xrZH3t7O
今川のは総動員可能な数がおおよそ4万ではないかって計算だったような?石高から。
で、今川家は4万つー流れじゃなかったかな?
ただ遠征軍は2万5千とかって数字らしいけど。

日本の戦国時代のような石高からの目安すらつかない2000年前の中国なんて実数は計りようもないっちゃないよなぁ・・

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/17(日) 14:58:10 ID:jXc1JKVD0
20 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/25(水) 12:53:13
赤壁というか、曹操の荊州侵攻以降の劉備の動きは神がかってるよな。

曹軍侵攻と劉ソウ降伏を知った劉備は、抵抗と曹操撃退の手を考える。

襄陽を占領したてこもるのは時間がないし危険が大きい。劉ソウがいるのだから、占領自体に手間取るかもしれない。

江陵に急ぎそこに拠るのは魅力的だが、だからこそ曹操もそれを真っ先に潰しに来るだろうと劉備にも読めた。

ではどうするか。
自分に近い立場の江夏太守劉キとの合力しかない。しかしこのままでは兵力差にかなり不安がある。
そこで劉備は敢えて襄陽や江陵が目的地かのような行動を取り、曹軍をひきずりまわすことにした。
曹操はまんまとその手に乗り、強行軍に次ぐ強行軍で劉備を追いかける。
更に極めつけは、曹操の切札虎豹騎である。袁譚を斬るなどここ一番に投入されてきた精鋭を、劉備はわざと使わせる策を使った。
それが民と歩調を合わせた行軍である。
江陵を確保されることを恐れた曹操は一挙に決着をつけるべく劉備に虎豹騎を投入。
しかし劉備の遅い進軍は罠だった。今まで民と一緒に行軍していた劉備は、虎豹騎に追いつかれるといきなり全速力で東に逃走。
虎豹騎は民に阻まれ劉備をとり逃がす。後に残るは疲弊して使いものにならない軍馬と恐怖を味あわされた民の曹操への恨みだけだった。
劉備はかくして真の目的を隠し兵力も関羽に分け温存しつつ、曹操には無駄な消耗を強制しながら江夏に入ることに成功したのであった。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 15:38:17 ID:DS06TSR40
演義じゃ、諸葛亮がやったことのようになっていることも、
実際は劉備が考えて実行していたりしていたことが多いからねえ。

その点で、劉備は過小評価かも知れない。

25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 23:51:20 ID:3QpLgdr00
わりと「謀」の人だよな、劉備は。

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 12:23:55 ID:PnKMZmIa0
結局、疫病とか、補給などの問題があって、
ちょっと小競り合いをやっただけで、曹操は兵を退いたんだろう。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 13:10:48 ID:6Nu581c8O
>>26
なんでわざわざ長江を下ってまでこぜりあいするの?

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 22:41:38 ID:OKqabo840
示威ともとれる行動。 でも失敗した、ということか?


29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 22:50:18 ID:6Nu581c8O
だめじゃん
曹操ショボッ

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 23:32:35 ID:XZXHt9vq0
三国の史書はどれも自国に都合のいいように書いているからなあ

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/21(木) 11:35:37 ID:Ph73ZbEd0
どの史書も同じ

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 02:41:22 ID:rZkQtVy90
曹操の軍勢と孫権の軍勢との間で戦いはあった。
近くで劉備がうろうろしていた。
曹操の軍勢では疫病が流行っていた。
曹操の軍勢は北へ引き揚げた。

分かっているのはこんな感じか

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 03:21:37 ID:Dj0q6domO
>>32
孫権は江陵を占領した
劉備は荊州南部を占領した

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 01:13:11 ID:mK3Ct0x+0
呉郡から赤壁の戦いがあった近辺って結構遠いね。
曹操はこの戦役で完全な勝利を収めて荊州を平定した後でも、
江東の平定まではまたかなり時間を要したんじゃないかな。

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 02:17:30 ID:gKm36tF8O
赤壁は戦いの激しさでは官渡や夷陵の方がでかいかもね。
赤壁時曹操が江南を一気に制する気だったのか、
脅して降伏してきたらラッキー程度だったのかわからないが、
水上戦は苦手なうえ陣中は疫病が流行る。
そのうえに呉に鮮やかに負けることになる。
・・・まあ逃亡経路を押さえが間に合わず詰めを欠いたけど。
ただ三国志的には魏と呉の初めての激突であり、天下三分が形作られた。


って漫画に書いてあった

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 23:10:42 ID:P0JO1hrE0
意識としてはどうなんだろう?
やっぱ辺境の江南でも、平定しないと、
天下を取った気になれない感じかな。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 00:17:11 ID:xcijv007O
辺境っても荊州も呉も蜀も秦が最初に統一した時から中原王朝の版図だからね
完全に独立されたままでは天下を統一したとは言えないよ

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 08:31:00 ID:74mzZPwW0
赤壁の防衛線さえ突破できれば陸路で敵の拠点を衝ける。
魏の優位は増え、呉の不利は増える。
また銅山が確保できるので208年以後の魏の南からの退勢はなかったかもしれない。
兵力では魏の方が圧倒的なので、そこで魏が進軍を止めても江陵確保はおろか第二第三の赤壁が何度も出現するだろう。
こうなった場合、本拠留守のジュンイクが造反でもしない限り、呉の破滅は確実。

だから三国鼎立は大国の機能不全によって訪れた勢力均衡だと言える。
2mを越える大男も病臥しては小さな蜂や蚊を容易には殺せないものだ。
その病める大国を文帝と明帝は社会変革によってなんとか治療し、数字上の優位を実体化出来るようにしたのだと考えられる。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 12:26:48 ID:xcijv007O
>>38
見るたび疑問に思ってるんだが、江夏郡の銅山についてのソースをくれないか。
勢力地図を塗り替えるほどの影響力を持つほどの大鉱山なら、当時または前後の時代の記録から伺えると思うんだが、そんな記録をまだ見たことないんだよな。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 13:56:01 ID:Q6O7nQuv0
当時は、旧楚地域の荊州の方が、旧呉越地域の江東よりだいぶ開発が進んでたみたいだねえ

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 23:38:06 ID:WvVZ3I2C0
江南に、漢民族が入植して本格的に開発が始まったのは東漢以降。
西漢時代には、まだ未開の、非漢民族居住地域の色合いが強かった。

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/25(月) 16:02:29 ID:JZsaPP1x0
戦国時代の呉越の頃は、やっぱり自分たちは中原とは別の民族だという意識が強かったのかな?

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/27(水) 03:39:48 ID:YMr9begc0
秦、楚もまったくの異民族だからな。

楚なんか特に異民族の扱いは酷い、楚人の典型は項羽だな。
楚人は楚人しか重用しない。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/29(金) 16:06:03 ID:hcv+uacn0
まだ荊州のあたりは、漢民族化が進んでいたのかな。

呉にいた山越という異民族って、どんな風習の民族だったんだろう。

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/30(土) 18:10:09 ID:ePE5s1RN0
楚なんて自分で王を名乗っちゃうくらいだからな

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/02(火) 23:04:13 ID:vFr0SExb0
演義の方の戦いについて語る時は、
鄱陽湖の戦いも分析しないとな。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 12:11:18 ID:DdWzo4/r0
連環の計は知恵の輪

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/05(金) 23:53:40 ID:kUQs2Tdn0
演義の赤壁の戦いは最高だね。
ドラマチックで、ものすごく盛り上がる。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 18:46:17 ID:17GBGVst0
55 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/26(木) 21:12:25
疫病で仕方なく撤退したんだよ

・長江は水流が早く動力を持たない当時の船じゃ水上戦の展開は不可能。
・諸葛亮の出師の表は曹操の生涯の敗戦を挙げているが赤壁の戦いはない。
・周瑜は戦後特に賞されることなく、地位も上がらず加封もない。
・赤壁の戦いの翌年に曹操は周瑜に投降を求めている。


だ、そうだ。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 19:54:54 ID:RFb11sdDO
>>49
それは完全な誤読によるものも含まれてるし、ほぼ全てコピペ元のスレで論破されているはずだが

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 02:17:17 ID:qlgOQugU0
中国版wikiの「赤壁之戦」
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A3%81%E4%B9%8B%E6%88%98

参戦兵力は、曹操側が約16万人、孫権・劉備側が約5万人にされている。

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 03:15:56 ID:SgDHgY+GO
周瑜の分析がソースだな、それ

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/09(火) 16:07:05 ID:4+a9Ykwc0
呉の側はどれぐらい戦意があったんだろう。
降伏論も強かったらしいし。

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