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【王莽】新〜後漢初【光武帝】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 18:59:59 ID:kPKUGExN0
呂母の乱から天下統一まで語ってください

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 19:12:41 ID:Toffl0jP0
2

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 19:29:40 ID:KENND1UvO
お、後漢スレが

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/28(土) 20:58:59 ID:UGCmZhxn0
三戦で、ようわからんのが沸いて出て面白かったが、こっちはどうだろうか…

5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 03:03:25 ID:/C8v3riaO
スレタイ通りだと後漢の初期までしか語れないということか

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 11:15:14 ID:3brh4kkB0
光武二十八将って誰がいたっけ?
ケ禹、馮異、岑彭、呉漢…
馬援は入ってなかった希ガス

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/29(日) 11:54:56 ID:Ys3lDyyvO
携帯からなので一部使えない漢字があるので申し訳無いけども
雲台二十八将は順位ごとに挙げて行くと

トウ禹、呉漢、賈復、耿エン、寇恂、岑彭、馮異、朱祐、祭遵、景丹、
蓋延、銚期、耿純、藏宮、馬武、劉隆、馬成、王梁、陳俊、杜茂
傅俊、堅鐔、王覇、任光、李忠、万修、ヒトウ、劉植の二十八人です
さらにこれに王常、李通、竇融、卓茂の四人を加えて三十二将とすることもあります

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 00:22:40 ID:Pki4I+tpO
光武帝は地味だけど中国史上の中でも屈指の名君だね

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/01(水) 20:46:46 ID:v057zx5z0
禍の芽をたくさん残していったけどね。

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 14:56:40 ID:YS7sdrJHO
>>9
禍の芽とは例えばどんなもの?
劉秀は歴代創業の皇帝の中では後世に禍根を残さなかった方だと思うけどね


11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 15:43:01 ID:CiRyURVV0
関連

王莽 樊崇 劉秀 公孫術 
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1152092661/

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 15:51:08 ID:io3NFqnX0
>>10
粛清を嫌ったために、豪族が力を保持したままで後年の動乱につながったとかはいわれている
ただ、これは全てのことは長短が表裏一体というクチで、なら粛清しまくればよかったのか?というとノーだな

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 16:13:59 ID:nrXcAcAA0
功臣の粛清を行わずに、後にそれら豪族が外戚となった事と
死刑囚を一律、死一等を減じて宦官にした事が非難されてるが
本人としては善政のつもりだったのがな。

後、子孫が短命が多くて、それで皇帝権が著しく損なわれたのもあるが
これを光武帝のせいにするのは酷だ。

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 16:22:07 ID:+5mbtggQ0
光武帝にまつわる諺とか慣用句でいろいろ残ってるよね
向うところ敵なし、とか矍鑠とか烏合の衆とか
曹操も光武帝の行為(有力な敵を倒した時、内通文書があるかもしれない文箱を見ずに焼き払った)を真似ている

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 22:15:10 ID:Y098VP7W0
隴を得て蜀を望む

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 22:37:07 ID:i5NbPt+/0
前漢が外戚に乗っ取られて滅亡したため、外戚の専横には
相当に苦慮したはずだよ。その代わりに用いた宦官が問題
だったわけだが。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 23:23:51 ID:gKo4z4RJ0
東漢も結局は外戚がかなり跋扈したようだけどね

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 23:49:38 ID:0aTQ9DxL0
あえて東漢ですか。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/02(木) 23:58:58 ID:9hQ2AxGn0
だって後漢だと五代の劉知遠とかぶるから

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 00:05:46 ID:eo4CPdb8O
光武帝は統一後、功臣達の軍権を奪い重要な役職も与えないようにして豪族の影響力をできる限り排除しようとしてるけどね

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 00:06:49 ID:0aTQ9DxL0
節度使を無力化した趙匡胤みたいなものか。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/03(金) 00:34:37 ID:rHDi+Vh10
後漢は能力主義ではなく、人物重視で官僚を採用したのがダメだったとか。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/04(土) 22:03:30 ID:CfrBlHat0
たとえ能力があっても権力者の顔色をうかがい簒奪に対し抵抗しない人物より、
能力は平凡でも人格的に優れ気骨のある人物が官僚ならば王朝に尽くしてくれる
と考えたんだろう。
しかし官僚登用の基準で親孝行を重視したため、猫も杓子も孝行息子を装うよう
になり結局似非人格者が官僚になる例が多かった。
幼帝が続いたので建国期の方針がそのまま続いたのがいけなかったんだろうな。

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/08(水) 23:58:25 ID:2oZUK+PUO
一般的に後漢朝は、皇帝権が弱く豪族連合政権としての性格が強かったと思われがちだが
章帝期まではかなり豪族の力を押さえ込むことが出来ていた。
まあこれは豪族の側も中央政府に対してかなり遠慮してたってこともあるんだろうけど。やはり章帝以降長命の皇帝が出現しなかったのが惜しまれる。



25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/09(木) 14:09:00 ID:rV22lpDs0
小説十八史略だと、初期は聡明な皇后が続いてて外戚に専横させなかったから良かったとしている

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 04:37:05 ID:jedoNW/Q0
それも一因だろう
それに後漢の衰退は外戚の専横に始まるから
対比でそう見えるってのもあるか

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/10(金) 07:04:58 ID:xIahw+RG0
後漢は幼少で即位したうえ短命な皇帝が多かったのに王朝の寿命は長いね。
よほど基礎がしっかりしていたのかそれとも中級クラスの官僚はまじめだったのか。
前漢はあっさり新に乗っ取られた印象があるのに、後漢は実際は魏であっても
一応続いてはいたね。
そういえば献帝は長命だったね、本人は早く死にたいとか思っていたかもしれないけど。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 18:56:49 ID:OT08H9C50
献帝は孔明と同年生まれの同年死亡。
決して長寿じゃない。

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 22:20:44 ID:K2olZbxQ0
後漢皇帝の死亡年齢
光武帝 63歳(一位) 明帝 48歳(三位) 章帝 33歳 和帝 27歳 殤帝 1歳 

安帝 32歳 順帝 30歳 沖帝 3歳 質帝 9歳(毒殺) 桓帝 36歳(四位) 

霊帝 34歳(五位) 少帝 15歳(毒殺) 献帝 54歳(二位) 


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 23:14:30 ID:x3eLmSkQ0
洪武帝が結局一番の長寿か

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 23:15:16 ID:x3eLmSkQ0
変換間違えた。光武帝だ。

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 23:32:43 ID:vdUOFeEe0
在位期間で計ると献帝の方が長そうだな。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/11(土) 23:51:03 ID:K2olZbxQ0
東漢皇帝の在位期間の長さ
光武帝33年(第一位) 明帝18年 章帝13年 和帝17年
殤帝1年 安帝19年 順帝19年 沖帝1年 質帝1年
桓帝21年(第四位) 霊帝22年(第三位) 少帝1年 献帝32年(第二位)

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 04:11:53 ID:aAMTbK+b0
光武28将ってかっこいいな、どっかのサイトで説明してたよ
中国の星座28宿に当て嵌めて28人だってよ

{東方蒼竜7宿}−角宿、亢宿、てい(低から人偏を引いた字)宿、房宿、心宿、尾宿、其(+竹冠)宿

{北方玄武7宿}−斗宿、牛宿、女宿、虚宿、危宿、室宿、壁宿

{西方白虎7宿}−奎宿、螻(から虫偏を除く)宿、胃宿、昴宿、畢宿、觜宿、参宿

{南方朱雀7宿}−井宿、鬼宿、柳宿、星宿、張宿、翼宿、診(言偏じゃなくて車偏)宿

本当は凡庸な人間もいるんだろうな



35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 08:06:21 ID:kpkMyFV/0
戦乱の世で生き抜いて高位に昇っただけでもそれなりだと思うけど
普通なら名も無い犠牲者その一万人目、ぐらいで死んでるだろ

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 09:25:04 ID:AKj75wogO
雲台二十八将と言ってもピンからキリまでいる。
ほんと少ししか記述がないやつもいるし。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/13(月) 23:20:12 ID:FJ8E+6/D0
ケ禹みたいにどこがすごいのかわからんのが首席だしね。
馮異や耿弇のほうが功があるのになんでだろ?。

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/14(火) 00:33:46 ID:PZU+Kc9zO
確かにトウ禹って何が凄いのかよく分からないとこがあるね。
正直名将とは言い難いし、名軍師かというとなんか違和感あるし。
じゃあ彼が貢献した一番の功績は何かというとやはり人材推挙だと思う。
呉漢、寇恂、賈復、銚期等彼が見出だした人物はいずれも後に光武帝にとって欠かすことの出来ない名将となっており、
トウ禹の人物鑑識眼が非常に確かなものだったことを証明してる。

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/14(火) 01:23:02 ID:sczrkyRy0
>>37
まあ劉秀の学生時代からの親友だから。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/14(火) 21:35:36 ID:sn+YMboi0
光武帝に赤眉が降伏したとき玉璽・玉壁・更始帝の剣を献上したけど、
この更始帝の剣ってもともと劉縯の物だったのかもしれないね。
更始帝は劉縯の剣を借りてながめてたことがあるから、粛清した後自分の物にした可能性あるし。

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/15(水) 00:53:53 ID:T4ruAg3pO
朝飯前の語源ってやはり賈復の故事なのかな?

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/16(木) 19:45:58 ID:XfNdpy+10
「烏合の衆」は
始めて使った人    酈食其
現在の意味で使った人 邳彤
それを広めた人    耿弇

ということなのかな?

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 23:59:29 ID:Ujv9SlfE0
この時代光武帝以外で目立つのは王莽と馬援ぐらいだね。
少し後だが班兄弟もいたか。

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 01:30:40 ID:Ki586nPRO
光武帝が目立ち過ぎて他の人物が霞んじゃうんだよね
更始帝とかカイゴウ、公孫述はそこそこ有名な方かもしれない

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 11:10:43 ID:VMqaZFwA0
だからあんまり人気ないのかなこの時代。
調べると結構おもしろいのに。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 11:21:46 ID:0DIPoqbK0
それもあるけど英雄らしくない英雄である光武帝は
小説の主人公としては書きづらい存在だからメジャーになれないんだろう。
駄洒落好きの光武帝は歴史小説よりラノベ向きだし、ラノベで仮に出ても
変な話になるだろうしね。

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 11:29:48 ID:+Bl/h7Mh0
皇帝になっても毎日政治に熱心に取り組んで苦労しまくりの劉秀
見かねてみんなが休んでと頼んだら
「私は仕事を楽しんでいるのさ(意訳)」と答えて平然としていた
やっぱり農民的だよな、業を楽しむとか

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 11:36:26 ID:0DIPoqbK0
劉秀っていかなるときも緊張感のない人間のような印象を受けるな。
なんか綿のような柔らかさの持ち主というか、その言葉も生き方も。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 12:25:27 ID:/m0nm0ym0
目立つ人物が光武帝の配下に集中しまくってるのも地味な要員かも知れない

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 12:38:36 ID:0DIPoqbK0
また相手側の目立ちそうな連中が簡単にやられてるからよけいにね。
(厳尤とか延岑とか。)

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 20:57:49 ID:lwp9gOS/O
延岑はかなり根性あるけどね
何度敗れても挫ける事無く反光武帝の姿勢を最後まで貫き通した
赤眉やトウ禹・呉漢等の名将を破ったこともある


52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 21:02:47 ID:Ih3aQjV20
王朗って詐欺師みたいな印象だけど意外と有能かも。
劉秀の首に十万戸の価値つけてるし、時代が違うけど項羽の十倍。
あと劉秀一行が昆陽の戦友任光のいる信都に向かわずあちこちうろうろしていたのは、
王朗が劉秀は必ず信都に向かうと予想して網を張っていたためかもしれない。

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 21:51:08 ID:lYP8weru0
この時期を舞台に、三国演義みたいな物語って作れるかな。


54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 22:12:27 ID:Ih3aQjV20
天下分け目の戦いがないから難しいだろ
昆陽は見せ場だけど天下わ賭けた戦いじゃないし、
宜陽は赤眉ガ戦わず下ったから完勝だけど戦いじゃないし
公孫述と隗ゴウが連合して長安あたりで戦いが起これば最終決戦になっていたけど・・・

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 23:13:04 ID:lwp9gOS/O
カイゴウがもう少し早い段階ではっきりと反光武の方針を取ってたらねぇ…
光武帝との戦いでは諸戦に呉漢や耿エン等を退ける等なかなか光武帝を苦しめていただけに
優柔不断な態度がなんとも悔やまれる

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 23:22:04 ID:Ih3aQjV20
まあ隗ゴウは天下とる野心なかったしね
問題は公孫述、皇帝名乗っていながら蜀に引き篭って・・・

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 10:48:42 ID:fuUi1iovO
公孫述もそうだけど、基本的に蜀に基盤を置いた政権は専守防衛に徹する事が多くてあまり外に撃って出ようとしない
守り易い地形ではあるけれど逆に言えば外に攻めて行きづらい
そう考えると毎年の如く北伐を敢行していた蜀漢は特異な存在だと思う

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 12:54:22 ID:N25AkjPD0
>>54
やっぱ盛り上がりに欠けるか・・・

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 13:28:42 ID:2YXlBVbs0
蜀漢の歴史40年で、諸葛亮と姜維を合わせても10年ほどですよ遠征なんて。

まあ蜀の政権がそのまま閉じこもってしまいがちになるというのは同意。
このあたりは意識の違いなんだろうね。蜀漢や唐の戦乱から逃げ出してきた皇帝
たちには、「ここは亡命地、仮の土地」という認識が強く残っていたと。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 16:36:47 ID:cJLOjJ4M0
かといって、華南が征服されるときは、たいがい四川方面が先に併呑され、江南はそのあとだよね。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 17:00:22 ID:Veef+XQ+0
そりゃ川の流れを考えれば当然のこと

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 20:14:26 ID:AS8l8Mp50
蜀の土着勢力にしてみれば、治安維持さえできればどんな勢力でも
かまわないって考えなんだろう。だから外征に積極的に協力しない。
外から来た政権は自分達を守る警察力と考えている節がある。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 22:47:59 ID:uT7wtS330
独立の気風はあんまりなかったのかな?

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 22:57:47 ID:fuUi1iovO
少なくとも公孫述は独立しようとする意思は持ってたよ
実際独自の国号を定めたり貨幣を発行したりしてる

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 23:24:40 ID:sWSVS9ub0
蜀から出発した劉邦ってやっぱ凄いな。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 23:25:21 ID:AS8l8Mp50
当時の豪族にとって最も重要なことは自分達一族の財産を守ること。
そのため多くの豪族が武装して自衛し、「真主」が天下を治めるのを待った。
特に蜀のように比較的平和な土地ではその傾向が強いと思う。
自分達の損になる事はしたくないから、公孫述が外征を望んでも反対する。
蜀漢と異なり公孫述には、それら豪族を抑えるだけの軍事力(自分の軍隊)
がなかったんじゃないか。その軍隊をつくっているうちに滅亡したのでは。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/23(木) 23:32:58 ID:cJLOjJ4M0
>>65 根本的な勘違いをしている。 蜀ではないのだぞ。

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/24(金) 00:56:42 ID:ysqCzEDR0
>67
巴・蜀を含む漢中。って事だから良いんじゃない?
俺も>>59の書き込みを見て、劉邦を褒め様と思ってたから
言う訳じゃ無いけど…

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 05:39:32 ID:qKCgO7DbO
光武帝って二人の兄貴に対して、顕彰するような諡号とか贈ってますか?

孫権と孫策の関係において前例として影響がないのか気になりましたんで。

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 11:33:18 ID:ajltY8zY0
劉エンは斉王に劉仲は魯王に封じられています。諡号はエンは武王、仲は哀王です。
仲には子供がいないので名前だけですが、斉王家はエンの子孫が代々受け継いでいます。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 13:47:07 ID:hdTBs7lO0
>>70
少し違う。劉縯には章・興という子供がいたので、建武二年に劉章を太原王
として劉縯を継がせ、劉興を魯王として劉仲を継がせる。
建武十一年に、劉章を斉王に遷し、十五年に劉縯を斉武王に諡し、劉仲を魯
哀王に諡す。
(蛇足であるが、少しややこしいのは途中、古に王に封じるは無しと、王を
全て侯に替えることがあり、その後、劉氏の侯を再び王に替えている。その
侯時代が紛らわしいので、ここでは省いて全て王とした)

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 14:21:56 ID:qKCgO7DbO
なるほど、単純に劉兄弟と孫兄弟を一緒には出来ませんが、王号は贈って子孫に継がせてたわけですね。

ところで、塚本青史の小説では劉秀と兄達の仲が悪く書かれていて意外な感じがしたのですが、劉秀の兄弟関係は悪かったんですかね。

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/26(日) 16:31:11 ID:68ZKo3dL0
兄弟仲は良かったと思う。
兄が死んだ後、涙を流して馮異に諌められているし。

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/27(月) 23:55:56 ID:OE/Lc3tCO
ただあんまり生前仲が良かったようなエピソードが無いんだよねぇ…
性格も全然違うし

75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 00:12:23 ID:BwSjLbX30
特にエピソードを残すようなこともない
普通の兄弟だったんじゃない?

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 08:26:22 ID:iRsa70g60
妹とは仲良かったんじゃない?
逃げる時わざわざ一頭の馬に乗せて一緒に逃げてる
劉邦なら息子でも蹴落とした場面だ

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/28(火) 20:37:03 ID:UL6SOU4/0
妹の名前(伯姫)って姉達の名前(黄・元)とくらべると浮いてるよな。
兄弟姉妹とも母親同じだっけ?。

78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 00:15:22 ID:is5Ss6W10
>>77
そうだよ。
劉欽(父・南頓君)、樊嫺都(母・樊重の娘)
後漢書・北海靖王興伝に見える

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 00:36:51 ID:18jojZQb0
劉秀の家族は三男三女。男は縯、仲、秀、女は黄、元、伯姫の順。
劉秀から見て、黄、元は姉、伯姫は妹。ここまでは良い。
では、縯と黄ではどっちが年上だろうか?
誰か分かる史料とか誰か知ってる?
というのは、縯、仲、黄、元、秀、伯姫の順だと、劉縯は劉秀の4つ
以上年上で、劉秀にとって十分目上の落ち着いた兄という感じがする。
もし、黄、元、縯、仲、秀、伯姫の順だと、2つ、少し年長なだけな
兄ということになるかも知れないから。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 08:26:18 ID:CBFmcldw0
長女・劉黄、次女・劉元、長男・劉糸寅、次男・劉仲、三男・劉秀、末女・劉伯姫
とあるところではなってるね

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 22:10:52 ID:cr1MbnGy0
劉黄・湖陽公主、劉元・新野公主、劉伯姫・寧平公主になってるけど、
小長安で劉元と一緒に死んだ彼女の娘たちも公主になったの?

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 23:33:51 ID:QbnNdMNI0
>>81
公主が嫁ぎ先で生んだ娘が公主になるということになる。
これはありえない。元の子は房子侯ケ晨の娘、それだけ。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/29(水) 23:54:35 ID:ey5SslPaO
湖陽公主からの結婚の申し出を「糟糠の妻は堂より下さず」と言って断ったのは誰だったっけ?

84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 00:34:35 ID:PCXTx78v0
宋弘の妻の話?

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 08:36:13 ID:NYIq79nX0
そうだね

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 11:31:46 ID:SalJAk9+O
宋弘だけに糟糠の妻という訳か

87 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/11/30(木) 23:09:19 ID:EKe9v2/40
オチが・・・

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 23:31:49 ID:SalJAk9+O
ごめん…

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 23:38:43 ID:DdmkQtlU0
湖陽公主(劉黄)が夫である騎都尉胡珍を亡くして、劉秀が湖陽公主の意中の人
が誰かを探らせれば、宋弘らしいので、公主を屏風の後ろに隠して、宋弘を呼
んで「裕福となれば妻を替えると言うのは人情かのう」と尋ねた。
で、宋弘、件の名言を吐く。その結果、光武帝は「駄目だった」と公主に言っ
た。

この話、続きが無くもない。寇恂が汝南太守であったころ(建武三年から七年)、
孝簾に挙げられて尚書侍郎となった周嘉の、王莽末の頃の太守を守った逸話を
聞いて、「これは長者だ」と、公主を娶らせようとした。しかし、周嘉は病気
が重いのでと断った。
 公主としか書かれていないが、この年代で対象となるのは湖陽公主しかいな
い。よって光武帝は、湖陽公主の婿探しを続けていたと分かる。

90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 23:48:36 ID:SalJAk9+O
>>89
湖陽公主ってよっぽど醜女だったのかな
それにしても劉秀は結構シスコンっぽいよね

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 00:16:27 ID:LSn8paIk0
>>90
湖陽公主の出てくる逸話には、白昼、奴隷が人を殺したが、それを主人である湖陽公主
が匿ったというものがあり(酷吏列伝の「強項の令」董宣伝、(蔡茂伝にも同じことが記載))、
権威を笠に着る性格のようです。
夫がいなくて、暇だから都度都度光武帝に会いに来て、光武帝も持て余し気味だったの
かも。


92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 17:18:37 ID:0KHz2KBHO
二十八将の中で最強の武将って誰なの?

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 20:55:00 ID:fv4DGrdS0
>>92
もっと具体的に書かないと。
例えば、二十八将が個別に一騎打ちしたら最強は?
例えば、二十八将に同質同数の軍を率いさせて戦えば最強は?
この場合も、単純な戦いで計略不可と最大限計略を許す2通り
で変わってくる。状況によって最強は異なる。
一騎打ちのことを言うなら、賈復、蓋延、銚期、馬武に絞れる
かな。その中では賈復かな。異議有りの人はコメントして。

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 23:22:29 ID:YI6/pxCa0
個人の戦闘力は賈復か馬武、指揮官としては耿エンか岑彭、
知略は馮異かコウ準、軍団の攻撃力だと呉漢だと思う。

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 23:29:21 ID:YI6/pxCa0
>>94
間違えた寇恂ね。

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/02(土) 00:38:39 ID:PMzNdt7zO
個人的な武勇なら銚期が一番じゃないかな?
銚期伝には「手づから(自らの手で)〜人を殺した」って記述がよく出て来るし。
他にまだ挙がってない候補としては陳俊とゾウ宮とかかな。

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 11:08:28 ID:QFRY3/ZqO
二十八将ではないけど馬援はどうだろうか?

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 11:25:22 ID:vPcY27d50
関羽

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 15:54:27 ID:/eOXbFBb0
↑98は見なかったことにして、塗り込んでしまおう。

馬援は、確かに隗囂と本格的に戦うときには活躍している。しかし、馬援
の功績が強調されるのは、武陵蛮が反し、呉漢の副将であった武威将軍劉
尚(或いは劉向)を遣りてこれを討たしめるも敗北し、次に送られた馬成
も功無く、最後に馬援が送られて、武陵蛮を討ち果たして以降。この時、
建武二十四年で、二十八将で馬成以外に残っていたのは、ケ禹、賈復、耿
弇、この三人は兵権を返し、王覇は匈奴と対峙し、残るは臧宮、馬武、劉
隆である。この状態だから、馬援も活躍の場ができたとも言える。


100 :99:2006/12/03(日) 16:37:41 ID:Aqj5EQrb0
建武二十四年が、光武帝の名言「矍鑠たるかな是の翁(勇ましいかな、こ
の爺さん)」の年。馬援六十二才。率いる将には中郎将馬武、耿舒(耿弇
の弟)、劉匡、孫永ら。

ちなみに交阯の姉妹徴側・徴弐の叛乱を伏波将軍馬援が平定しに行くのは
建武十八年のこと。この時、副将扶楽侯劉隆、他に楼船将軍段志。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 20:47:06 ID:AN4ZW8UM0
コミック三国志マガジンに徴姉妹の漫画が載ってた。当然馬援も登場する。
前に「隴を得て蜀を望む」の話のときは光武帝は完全に無視されてたので、
三国志以外は書かれないと思っていた。
なんかうれしい。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 21:14:37 ID:QFRY3/ZqO
馬援は悪役なんだろうなぁ…

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 21:28:39 ID:AN4ZW8UM0
>>102
そうでもない。
悪役は太守の蘇定で圧政に抗議した徴側の夫詩策を殺してる。

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 23:17:50 ID:3T/d/mI+0
厨臭くて無理を承知で聞くけど、光武帝の能力を光栄三国志式にあらわすとどうなる?
武力、統率、知力、政治、魅力で

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 01:13:11 ID:Ff8LrAZa0
折角馬援の話が続いているのだから、馬援に光武帝の採点をして貰おう。
馬援は隗囂の使いで、劉秀に会い、その人物像を隗囂に報告している。
馬援が隗囂に語るに「(劉秀は、)聡明で勇気と才略があり、人の敵う所では
御座いません。且つ心を開きて誠を示し、隠し事無く、闊達にして大節多き
ことあらまし、高帝(劉邦)と同じ。経学は博覧、政治は明解敏速、前の世
に類なし」
隗囂が劉邦に比べてどうかと尋ねれば、馬援は「比較になりません。高帝は
可も無く不可も無し。今上帝(劉秀)は実務を好み、常に節度を保ち、また
飲酒を好まず」と言う。
隗囂、心喜ばずして「きみの言の如くであれば、返って(劉邦)に勝れると」
と息子を人質に出すのを承諾する。

よって、劉邦を基礎点に上乗せして下さい。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 20:17:00 ID:IxkjTJf/0
>>104
武力 53 基本ヘタレだが昆陽の戦いなどの戦果を考慮して
統率 71 兄貴や義父の強力な後ろ盾があったとはいえ皇帝になってる
知力 58 特筆すべきエピソードなし。太学出てるんで馬鹿ではない 
政治 80 一応統一後を無難に統治した
魅力 30 殆ど小説化されない原因はこの点か


107 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 20:42:12 ID:pqBOFSFC0
陣頭指揮して兵たちに「神のような人だ」と言われたことは加味されませんか、そうですか。

108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 21:51:29 ID:OBJxhWMf0
他のスレでの能力評価
劉秀
統率90      統率94
武力77      武力85
知力82 もしくは 知力95
政治87      政治98
魅力94      魅力99

109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 22:57:56 ID:ZL3VZmzY0
>>106
兄貴は分かるが、義父って誰?
蓋延、ケ隆、呉漢の兵の配置を聞いて、その配置は危ない、或いは使者に
お前が前線に戻る頃には破れているだろうと言い、その通りになったのは
劉秀の知力を示すエピソードじゃない?

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 23:19:51 ID:OBJxhWMf0
>>109
劉楊を郭聖通の父親だと勘違いしてるんだろ。
光武帝にかぎらず人物の能力を数値にした場合、
納得できないってことってあるよな。
もともと数値で測れない要素が多いんだろ。

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/05(火) 23:52:43 ID:pqBOFSFC0
そりゃそうだ。 だがそれを言っちゃ…
配下の能力を上げると同時に、勢力固有のなにか特別な項目がいるね。

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 02:07:19 ID:r6UtzZEL0
>>104
確実に俺等より凄い奴。
それで良いじゃないか。

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 16:38:42 ID:lkHDyMJ7O
>>112
臆病者乙

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 19:52:19 ID:l5UWMYr20
光栄式評価スレで魅力100候補に挙げられてるお!

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 21:01:20 ID:DVkEWrEmO
さすがに魅力100は高過ぎ。
光武帝って人によって評価の差が激しいよね。

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 21:08:27 ID:l2Y3YhW+0
評価低い人は、たぶん知らないからなんとなく、横光劉邦ふうプラスアルファくらいになってるだけじゃまいか?

117 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 21:48:16 ID:cIM5h2BB0
>>105
「可も無く不可も無し」って一応ほめ言葉なんだよな。
闊達自在の境地って意味で、仙人みたいな感じかな?
劉邦は行き当たりばったりって意味で言ってる気もするけど・・・。
>>116
よく知らない人は、光武帝は豪族達に神輿として、祭り上げられた皇族って思ってたりするし。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/06(水) 23:06:07 ID:l2Y3YhW+0
>>117 こうしてみると、劉秀やその政治背景の知名度がどういうものかってよくわかるね。
中国では、最近ブレイクの予兆があるけど、日本人受けしそうにない、あまりの完璧成功人生…
かえって妬まれはせんかとガクブル

119 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 19:19:45 ID:conRNdMT0
少なくとも腐女子受けはする模様

ttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/5079/
ttp://sagaplanets.product.co.jp/works/kouki/kouki.htm#to

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 23:29:09 ID:xAhoegnW0
>>118
完璧人生だけど、俺は嫉妬は感じないな。
成功が鼻につかないというか、嫌味が無い。
人徳と云うやつかな。

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/07(木) 23:32:46 ID:9EuCRPSV0
↑119 腐女子受けというより、ラノベな素材だな。

腐女子なら、男×男の関係をアレコレ想像して楽しむらしい。
光武帝がちゃんと世に知られると、そういう真性腐女子に絶対
に標的にされるのが一名いる。後漢書読んでる人なら直ぐ分か
る。分かった人は名前を言わずにエピソードでコメントしてね。

例えば、子供が出来ないので、兄貴が気を利かせて妾を遣った
が、追い返したという、あの人。

122 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2006/12/07(木) 23:33:35 ID:EwDIM/Do0
妻を娶らば使い古して殺す。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 00:01:24 ID:vNqFLmaT0
>>121
劉秀に容貌を気に入られた人ね。
従兄弟が遼東太守で、日本からの使者を都につれてきたんだっけ。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 20:39:08 ID:b5WQVrOs0
>>123
そうそう、従兄弟は30年くらいずっと遼東太守で、明帝の時もその座にいた。
もし、倭からの使者が朝鮮半島経由で後漢に入朝したなら、彼が何らかの指
示をしたでしょう。それ以上のことは後漢書東夷伝読んでも書いていません。

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 21:11:14 ID:sM7Mc7LI0
牛に乗って闘う王

126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 21:33:52 ID:vNqFLmaT0
>>121
馬援×隗囂とかやりそうだな。

127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 22:29:39 ID:+Wkw/1i60
>>126
想像すんな。

128 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 23:15:33 ID:iFfrKRC9O
なんで李軼って更始帝側に寝返ったんだろうか
元々李通に劉秀兄弟に協力することを薦めたのは彼だったのに
なんで後に劉エンの暗殺に関わったのか…


129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/08(金) 23:22:57 ID:d8aNFbA3O
城陽景王バンザイ

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 09:27:05 ID:vNtRkI6T0
>>128
昆陽が、王邑の軍に包囲された時、劉秀は夜半十三騎で脱出に成功する。
この十三騎の一人が李軼。

(劉縯は宛を降し、それを知らぬまま劉秀は昆陽にて実勢力四十二万の
軍勢を数千の兵で破る)

次に李軼が登場するのは、朱鮪と共に更始帝に劉縯の殺害を勧める時。

これ全て更始元年六月のことである。妙だと感じない人はいないと思う。

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 10:00:31 ID:jL3O992w0
>>130
昆陽戦で意見が対立し、感情的にこじれてしまったのかな?
兄の仇の片割れである朱鮪が降伏後、登用され出世しているのも奇妙だ。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 11:04:22 ID:bJ//zeyM0
>>128
劉縯兄弟にしろ、李通、李軼、劉玄も、
みんなバラバラで主従関係なんてなかったから、
そもそも寝返るなんて感覚もなかったんじゃない?
主従関係になるのは、劉玄が更始帝に即位してからでしょう。

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 12:22:51 ID:jL3O992w0
劉兄弟は李通・李軼を義兄弟のように思ってっていたが、
李軼にはそんな考えは無かったのかもな。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/09(土) 13:07:09 ID:aFuZjiOJ0
>>117
「可も無く不可も無し」は『論語』微子編で孔子が言った言葉で、孔子が七人の
賢隠者を評した後に、それに比べて自分は「可も無く不可も無し」の平凡たるも
のだと自らを謙遜して言ったもの。しかし孟子や朱子学では別の解釈がされて
いる。
馬援が口にしたのは、平凡の意味で「可も無く不可も無し」でしょう。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/10(日) 11:41:57 ID:MrF8iOjn0
李軼が劉縯・劉秀に反目したのは自明だからそのまま置いておくが、
従兄弟・李通の立場はどうだったんだろ。つまり、劉縯の暗殺にど
れだけ関与していたか。また、劉秀・李軼どちらに肩入れしていた
のか。

そう考えると、李通の動き方も面白い。
長安まで更始帝に同行し、西平王に封じられ、荊州に赴任する時に
は劉秀の妹の伯姫を娶る。劉秀が皇帝に立った時は、召されて洛陽
に往き、臣下となっている。世渡りが上手いといえばそうだが、ど
うしてそういう芸当ができたのか。

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/11(月) 14:26:11 ID:XL7bbA22O
劉秀の妹を娶ったぐらいだから相当信頼されてたんだろうね。
図讖に通じていたらしけど、劉秀が図讖に拘るようになったのは李通の影響だったのだろうか。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/11(月) 15:23:07 ID:XexgBJPX0
> 荊州に赴任する時には劉秀の妹の伯姫を娶る
もっと前に娶っていた可能性はない?
通因娶光武女弟伯姫
"因"は、普通は理由を示す言葉だから、
後に光武帝に召し出された理由を示してるってことないかな?

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/11(月) 17:08:04 ID:4L0h5FLQ0
>>136
図讖は当時の流行だったから、
劉秀の図讖好きも単なるミーハーだったと思われ。

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 00:01:36 ID:2P+SzEdL0
>>137 後漢書で、前後の文は
更始使通持節還鎮荊州,通因娶光武女弟伯姬,是為寧平公主.

更始(帝)、(李)通をして節を持ちて還って荊州を鎮ぜしむ。
(李)通因って光武帝の妹伯姫を娶る。これ寧平公主と為す。

因ってが掛かる文は直前の「更始(帝)、(李)通をして節を
持ちて還って荊州を鎮ぜしむ」しか無いと思いますが。

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 00:21:10 ID:SjGXGfmj0
馬鹿だから文字だけじゃ解からなかったん!
悪いか!

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 12:22:18 ID:eCGBfkQ0O
劉秀の図讖へのこだわりようは単にミーハーだからっていう域を越えてる感じがするけどね。
普段絶対に部下を粛清しなかった劉秀が、図讖を否定した儒者を死刑にしようとしたこともあったし。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/13(水) 00:22:56 ID:4OSmrqW30
それほど当時は図讖に影響力があったんじゃないか。
いくら否定しても図讖を信じるものはいるだろうし、
それなら自分達に都合の良い解読をして流布させたほうが良い。

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/13(水) 06:59:43 ID:4IBLo/GE0
図讖は西漢末期に頻出する。王莽等はそれを操り、また逆に振り回された。
哀章の「金匱策書」なんかそう。劉秀の時代も影響が残っている。公孫述
も図讖で自分の正統性を主張する、或いは臣下を納得させるのに使ってい
る。蛮中山の賊の張満というのが、劉秀の部下に敗れた時に「讖文、我を
誤てり」と言っている。それほど世の中に流布していたということになる。
その後、図讖の類、讖緯節は西晋の武帝が禁止してから、各王朝では禁止
されることになった。よって以降は図讖の影響は少ない。

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/14(木) 21:01:24 ID:ls6P91RE0
李通の図讖は元がある。『漢書』「王莽伝下」に魏成(魏郡)の大尹(太守)李焉が卜者
王況と謀り、王況が李焉のために讖書を作ったとある。王況が言うに「(中略)漢家當
復興、君姓李、李音徵、徵火也、當為漢輔」つまり「漢は当に復興すべし、君の姓は李、
これは徴調(ちちょう)の音で、(五行では)火、当に漢の補佐となるべし」これが由来
である。
『後漢書』「李通伝」では、王莽の世、李通の父李守は王莽の宗卿師であり、その集め
たる讖文に「劉氏復興、李氏為輔」とあるのを李通は胸に留めていた。李通は巫県の丞
となり能名あり。しかるに李通の家は富たるが故に、李通は役人でいて面白くもないと
辞めて帰る。

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/15(金) 22:53:01 ID:r0u3seO10
>>129
赤眉の方でしょうか?
劉盆子も城陽景王の血筋なんだよね?

146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/17(日) 10:04:09 ID:e5S3BZ4sO
城陽景王信仰を弾圧したのが曹操なんだよね

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/17(日) 20:37:13 ID:rQQEy8eM0
城陽景王ってどういう人? 何故、信仰されてるの?
教えてくんですまん。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/17(日) 21:00:10 ID:3CBQI8030
>>147
高祖劉邦の長男の斉王劉肥の次男劉章。呂氏討伐時に兄の斉王劉襄を挙兵させ、
みずからは呂産を斬った。
兄が皇帝なっていれば斉王になっていただろうが、結局帝位は叔父の代王劉恒(文帝)
が継いだ。文帝は劉章を趙王にという意見を退けたため、彼は城陽という小国の王となり二年後に死んだ。
恨みを抱いて死んだとされ同情が集まり神として祭られた。


149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 00:47:45 ID:Han0yFqw0
赤眉は、長安を一度出て隴に向った時、帝陵を荒らしたらしい。
呂后の墓荒しは分かるけど、他を荒らせば、城陽景王の親族を
汚すことになる。そこまで知恵回らなかったのかな。


150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 00:57:56 ID:YuOb2Qy3O
城陽景王が怨んでいたであろう相手は文帝だったろうから、文帝以降の皇帝たちはむしろ報復すべきだったのかもしれん

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/22(金) 12:14:31 ID:YEdYqf4UO
王莽の二名の禁は何故新朝が倒れた後も守られたのかな?

152 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 00:43:32 ID:6zWpIXfh0
朱虚候だった劉章は呂后存命中、酒宴の司会を勤めたとき「将軍の家系だから」
という理由で軍法をもって司会を勤め、無断で中座した呂氏の男を斬り、また呂后
の前で「農作業の歌」と称して呂氏は除かれねばならぬという意味に取れる歌を歌ったが
どちらも呂后の許しを得てやったことなので罰せられなかった。
また未央宮の便所で呂産を斬った後、勅使の馬車に同乗して長楽宮に赴いたため近衛兵の長官
呂更始は勅命と信じ抵抗せず斬られた。
知勇を兼ね備え、気骨もあるこの人物を大国の王にすれば兄と共に反乱を起こすかもしれないと
文帝は考えたんだろう。

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/23(土) 17:59:19 ID:TQebedHP0
赤眉は景王を祀って巫(かんなぎ)を連れていた。その巫がトランス状態に
入って言うに「景王大いに怒って曰く、まさに天子と為るべし、何故に賊に
為ると」。この巫を笑う者、病めば、軍中驚き騒ぐ。
 というわけで天子を立てる一助となる。

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 23:35:53 ID:mcNwhQFiO
>>151
秦や隋のように、政権自体短命でも後の王朝が前王朝の遺産を引き継ぎ発展・定着させることは多々あるので、それも一例じゃないかな?

諱が一文字でもよく使う字の方が二文字になれば、直ぐには困らないんじゃない?

まぁ、諱でもって語ってる後世の人間よりも、当時の人は同姓同名に困ってなかったかもね。


155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/24(日) 23:41:44 ID:xcijv007O
二字名の禁は王莽が勝手に考え出したのではなく、当時の儒教的な価値観から出てるものだからな
王莽に関係なく納得して従う奴が多かったということだ

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/26(火) 08:52:57 ID:pbwq5MUJ0
>>150
遅まきながらダウト。
『漢書』王莽伝下巻末に「宗廟園陵がみな発かれ、ただ覇陵と杜陵のみが
完全であった」とある。覇陵は文帝の墓、杜陵は宣帝の墓で、これらは長
安の南東にある。他の園陵は全て長安の北、渭水を渡った所。長陵、高祖
の墓もこちらにある。よって赤眉は何も考えずに宗廟園陵を発いたと言え
る。

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/26(火) 11:18:00 ID:VEv2J9eVO
斉王ではなく恵帝を後継にした高祖をも怨んでいたんだよ

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/26(火) 22:46:08 ID:c6Wwweh/0
廉丹って廉頗の子孫だったんだ。

159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/28(木) 20:52:58 ID:A41Cy64XO
>>158
それは初耳だね。この時代に廉頗の子孫が生き残ってたなんて驚きだな。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/28(木) 20:58:27 ID:nxvCkIQ60
>>159
後漢書には、廉丹の孫の伝記がある。

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/29(金) 00:12:28 ID:eyhqux1B0
>>159
趙奢の子孫(馬援)も生き残ってるよ。

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/29(金) 04:02:05 ID:cbkCawco0
>>160
廉范伝。楚王英の謀反の時に、連座し誅せられた薛漢の遺体を独り収めて、
明帝の怒りを買い詰問される。そのとき廉范が答えるに「自分はわきまえも
知らぬ愚か者でございます。思いますに薛漢は既に誅せられ、(これに教え
を受ける身とすれば、)師への情に耐えず。罪は計り知れませぬ」
怒りが解けた明帝の言葉が面白い。「そちは廉頗の後裔か。右将軍褒、大司
馬丹と親属であるか」と尋ね、廉范が「褒は曽祖父、丹は祖父なり」と答え
ると、明帝は「(道理で)そちの肝が据わって妙だと思った」と赦す。これ
によって名を現す。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/29(金) 19:55:13 ID:OSzAPwHo0
陰家の美少女を嫁にするとは劉秀くんはお目が高い!それも小さな頃
からねらってたんだから。恋愛の師と呼ばせていただきたい。

164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/29(金) 23:14:02 ID:eyhqux1B0
>>141
光武帝が処士で旧友の厳光と同じ部屋で寝たとき、
厳光は寝返りを打って光武帝の腹に何度も足を乗せた。
翌朝「昨夜、客星が御座(北極星)をしばしば犯したので異変が起こるのでは」と
報告を受けたが、光武帝は「厳子陵とともに寝ただけだ」と答えた。
このエピソードから考えるに、光武帝は本当は予言の類を本気で信じてはいなくて、
ただ自分の都合によって上手く利用していただけじゃないか?

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/29(金) 23:23:14 ID:wsvnStHHO
>>164
それを見る限りでは光武帝は天人相関を信じていないようには感じないが

ただ、客星の侵犯→天下や帝の身に何か大事が!と思ったら帝の身体に足が乗っかったという徴だった、というオチなだけで
「身体に足が乗っかった」であれ、天子の身に何かあるときには天文に徴があるということは否定されてない

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/29(金) 23:46:42 ID:eyhqux1B0
>>165
でもそれほど深刻には考えていないようだけど?
予言を信じて致命的なミスを犯したって話は聞かないし、
良い予言は信じ、悪い予言は別の解釈をしたんじゃなかろうか?
清の時代に崇厚という人物がいたが、イリ地方返還を求めるためロシアへ行った時、
占い師に「期日までに帰国しなければ死ぬ」と言われ、
それを信じて本国に無断でイリ地方を割譲してしまった。
崇厚は帰国後、死刑を宣告された。こいつは結局命は助かったが、
光武帝は崇厚のように予言の内容について他人の解釈を無条件で信じるような人間じゃなかったんだろう。
予言に関しては当時の人間として普通といえるぐらいしか信じていなかったのでは?

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/03(水) 21:26:59 ID:NXvtkkc00
春秋左氏伝は劉歆の捏造なのか?

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/04(木) 08:19:48 ID:sHHlCynZO
>>167
その説が有力らしいと聞いたけど、本当かな。

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/06(土) 16:32:03 ID:W/VV0iUw0
>>166
図讖によって、皇帝になった劉秀が、その同じ図讖で大司馬を選ぼうとして、
臣下がブーイング。皇帝劉秀、だったら誰なら良いんだと言えば、名前が上
がったのが呉漢と景丹。で呉漢を大司馬、景丹をある意味同等な驃騎大将軍
にした。図讖で名前が上がった男は、それっきり歴史から消えた。
と、全面的に予言に託す人物ではない。
もし、朝に「今日の占い」が読めるなら、それを見てから仕事する人みたい
なものかも。

170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/07(日) 21:04:53 ID:B5/enrzB0
>>169
しかし、同じ図讖に名前があった王梁は二十八将に入ってるな。
ひょっとしたら図讖を理由に孫カンを大司馬に選んだのは、
王梁の県令から大司空の異例の抜擢のブーイングをかわす目的で、
わざと評判の悪い人間の名を一緒に入れたのかも。

171 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 01:01:40 ID:VlAnFFAp0
>>170
面白いけど『後漢書』の「本紀一上」によれば
六月己未 皇帝に即位
七月辛未 ケ禹を大司徒と為す (上記の12日後)
七月丁丑 王梁を大司空と為す (上記の6日後)
七月壬午 呉漢を大司馬と為す (上記の5日後)
と、三公の選定は日がずれている。王梁がブーイングされれば、その日一日
で、呉漢と同様に、では誰が大司空に相応しいかと諮問したと思われる。

172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 07:19:01 ID:DXfOL84EO
王梁って二度も勝手に兵を動かしたり、治水事業に失敗したりしてるのになんで28将に選ばれてるんだろ?

173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 11:24:41 ID:3BgL8BGT0
>>171
それって、任命した日じゃないの?
三公を発表したその日に任命するなんてあるのかな。
もしそうだとすると、王梁がブーイングされなかったのは何故だ。
皆が図讖を信じたからか、あるいは三公にふさわしい人格と容貌をもっていた為か?

174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/08(月) 15:22:41 ID:ffvaBcN10
王梁がブーイング受けなかったとすれば、孫咸ってのはよっぽど仲間内
で評判悪かったんだろうね。

また王梁が失敗するのは、大司空になって焦った故かも。死罪を免じら
れてから後は、治水工事の失敗で責められるまで、賊討伐など戦線で活
躍している。


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